2008年04月10日
ビスマルクの行動
どんなことをしていたのか気になります。
ビスマルクは統一ドイツの初代宰相兼プロイセン首相となり、1890年に引退するまで19年の永きにわたって、ドイツの更なる発展に尽力する。
内政面についてはカトリックに対する文化闘争を行い、プロイセン的な社会をドイツ全体に広げるような方針をとった。更に当時勢力を拡大していた社会主義者に対する攻撃を強め、ヴィルヘルム1世が狙撃されたのを口実に1878年に社会主義者鎮圧法を制定する。その一方で災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度の制度を整備する飴と鞭政策を採り、社会主義者が攻撃を仕掛ける口実をなくした。彼が打ち立てた社会国家像は、今日に至るまでのドイツの社会政策の基礎となっており、また日本の明治憲法体制にも影響を与えた。
国内整備と並行して、国際的にも様々な手を打っている。ビスマルクの戦略的思考はモルトケと同じように事前の周到な準備、すなわち慎重な外交関係の構築を重視していた。
フランスを屈服させた後は、そのフランスによる報復の芽を摘み取るような外交を展開、三帝同盟(1873年)、三国同盟(1882年、独露再保障条約(1887年)と立て続けに同盟を結ぶ。1877年から1878年にかけて行われた露土戦争の紛争を収拾するためのベルリン会議では「公正な仲裁人」と自称し、全ての国から恨みを買わぬよう、仲介役としてのドイツの立場を強調した。
これらの政策の目標は一にフランスを孤立させ、二にそれ以外の国との良好な関係を作り、三にそれらの国と一蓮托生と言った親密な関係までは作らない事である。ヨーロッパ列強各国の利害を正確に把握し、これを外交によって操る事でヨーロッパに軽い緊張状態を作り出し、どの国もうかつに動けない戦争の無い状態を作り出そうとした。これがいわゆるビスマルク体制である。
このビスマルクの思惑は図に当たり、ヨーロッパには第一次世界大戦まで続く小康状態が生まれる。後に第一次世界大戦の引き金となる三国同盟も、本来はドイツを意図しない戦争から回避させるための同盟であり、統一間もないドイツの安定が目的であったと考えられる。 統一までの戦争政策から一転したこの平和政策の成功からも、ビスマルクが単純にイメージされる「鉄血宰相」では無く、極めて柔軟で現実に即した政治家であった事が伺える。
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